与えたかった元気と希望 壁新聞「書き手」ら語る―思いは能登地震でも・震災13年
13年前の東日本大震災の被災地では、子どもや地元の新聞社が作成した壁新聞が避難所に掲示された。震災による混乱や悲しみの中、書き手たちは「元気づけたい」「正確な情報を伝えたい」との思いから、手書きの文章やイラストで多くの人々に元気を与えた。「被災者に希望を」との願いは、元日に起きた能登半島地震の被災地でも避難所新聞として表れた。
2011年3月、宮城県気仙沼市の市立気仙沼小学校で、避難していた小中学生らが集まり壁新聞を作成した。その名も「ファイト新聞」。2代目編集長として活動した小山里子さん(22)は「当時は分からなかったが、子どもなりの計らいがあったから大人を元気にできた」と振り返る。
避難所では、知り合い同士でも安易にお互いの被害状況を聞けないような雰囲気が漂っていた。そんな中、1人の小学生が抱いた「大人たちを元気づけたい」という思いから始まったのがファイト新聞だった。
編集上のルールは「暗い話は絶対に書かない」。「電気ふっ活」との見出しが書かれた11年3月18日の創刊号を皮切りに、避難所の炊き出しや日々の過ごし方などを子どもたちが取材して紙面を作った。「面白い」「また書いて」と反響を呼び、50号まで発行された。
県内最多の犠牲者数となった石巻市でも、地元紙「石巻日日新聞」が壁新聞を作成した。津波で新聞を印刷する輪転機が故障したが、震災翌日の同月12日から手書きで正確な被害情報を市民に届けた。
記者として壁新聞作成に携わった同社の平井美智子常務は「壁新聞と聞いた時は子どもがやるものだと思った」と明かす。だが、震災後に読者から「あの時、新聞を見て安心した」という声を聞き、「今では正解だったと思う」と話した。
能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県珠洲市。市立正院小学校の避難所でも、被災した小中学生らが仮設トイレの使い方や炊き出し情報などを伝える「正院ひなん所新聞」が張り出された。
「新聞を作るのは初めて」と話していた子どもたち。書く内容についてアドバイスをした元教員の小町富士子さん(68)は「子どもたちは言葉遣いなどすごく苦労して書いてくれた」と、目を細めた。